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カシオの歴史

樫尾製作所、高知に誕生

カシオ計算機の創立者である樫尾忠雄氏(故人)は、1917(大正6)年に高知県久礼田村(現在の南国市)に生まれました。樫尾一家は、大正12年の関東大震災の後おじに誘われ上京。高校卒業後に見習いの旋盤工として働き始めた樫尾忠雄氏は、腕の良さを見込んだ工場主に勧められ、働きながら早稲田工手学校(現在の早稲田大学)に通って技術を習得しました。鍋や釜、自転車の発電ランプなどを様々な製品を作っていましたが、評判が伝わって部品加工の下請けを頼まれるようになります。1946(昭和21)年には東京都三鷹市に「樫尾製作所」を設立、独立を果たします。

樫尾製作所は初め、顕微鏡の部品や歯車などを作る小さな下請け工場でした。初期の樫尾製作所のユニークな商品として、「指輪パイプ」があげられます。仕事をしながらでも吸えるように、たばこを差せる指輪型のパイプを考案、作るそばから売れていく人商品となったのです。これで得た利益が、後に計算機開発の資金として役立つことになります。

小型純電気式計算機が完成

1949(昭和24)年、樫尾兄弟は東京・銀座で開かれた第一回ビジネスショウで外国製の「電動計算機」を目にします。当時の計算機は歯車で動く機械式が主流でした。主に日本では、手でハンドルを回して歯車を動かす「手回し式計算機」が使われていました。海外ではすでにモーターで歯車を回す電動計算機が登場していたものの、現在の計算機と比べて非常に遅く、また歯車を高速で回すため、けたたましい騒音を出していました。電気の知識があった忠雄氏の弟の俊雄氏は、機械的な部品を使わずに電気回路で処理すればよいのではないかと考え、ソレノイドという一種の電磁石を使って、歯車のない電気式計算機の開発にとりかかります。

研究の末、1954年に小型純電気式計算機(リレー式)試作1号機が完成しました。最大の特徴は「テンキー」の採用です。当時の計算機はすべての桁に0〜9までの数字キーがついている「フルキー」を採用していました。ところが樫尾製作所の計算機は、数字キーが全体で10個しかありませんでした。表示にも独創的なデザインが採用されました。当時の計算機は「100+200=300」と計算する時には、3つの表示窓に「100」「200」「300」と、すべての数が表示されていました。樫尾兄弟はこれをやめ、最後に答だけが1つの窓に表示されるようにしました。そして1957(昭和32)年6月、リレー式計算機の開発・製造会社としてカシオ計算機株式会社が設立されました。

リレー式計算機は大手企業や研究機関を中心に順調に販売実績を重ね、会社は成長を続けました。増え続ける需要に応えるため、1960(昭和35)年には東大和市に新工場を建設し、フル稼働で生産を開始。電動タイプライターと連動した帳票自動作成機「タックコンピュライタ」、科学技術用計算機「AL-1」など、新製品の開発にも力を注ぎ、市場をリードし続けました。

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